日本の「脱・ハンコ文化」が動き出す

2020年8月5日 弁護士 吉田良夫

はじめに

新型コロナウィルス感染症が世界中で猛威を振るう中、日本のビジネスのあり方が急激に変化し始めました。
企業や組織のテレワーク(リモートワーク)の普及、DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進など、新しい生活様式、ビジネス様式に進化し始める一方で、日本のデジタル化を遅らせる大きな要因の一つでもある「ハンコ」問題が顕在化しました。

これまでは、重要な契約や手続きの場において、書面に署名・押印は欠かせないものでした。また、見積書、請求書、領収書、稟議書、確認書などの事務作業上においても「書面に押印」という慣行が深く根付いていました。

しかし、2020年4月7日に新型コロナウィルス感染症感染拡大の重大局面を迎え、政府が発令した緊急事態宣言によって私たち日本国民は不要不急の外出を自粛せざるを得ない状況となりました。
ところが現実は、テレワークを推進したいのに、書面に押印するだけのために、感染リスクを感じながら出勤するといった不合理非効率が顕著になりました。
そこで、政府と経済団体は以下を公表し、「脱・ハンコ文化」に向けて始動しはじめました。

・2020年6月19日 内閣府 法務省 経済産業省 「押印についてのQ&A」
http://www.moj.go.jp/content/001322410.pdf

・2020年7月8日 内閣府 規制改革推進会議 四経済団体
「書面、押印、対面」を原則とした制度・慣行・意識の抜本的見直しに向け た共同宣言
https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/061.pdf
https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/061.html (一般社団法人 日本経済団体連合会HP)

・2020年7月17日 閣議決定 「経済財政運営と改革の基本方針2020」
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2020/2020_basicpolicies_ja.pdf

 

1.押印の効果は限定的

内閣府・法務省・経済産業省(以下では「政府」といいます。)は、6月19日、連名で、「押印についてのQ&A」(以下、「Q&A」といいます。)を公表しました。

Q&Aの最初の質問は、「問1 契約書に押印をしなくても、法律違反にならないか。」です。

その回答は以下のとおりです。

・私法上、契約は当事者の意思の合致により、成立するものであり、書面の作成及びその書面への押印は、特段の定めがある場合を除き、必要な要件とはされていない。
・特段の定めがある場合を除き、契約に当たり、押印をしなくても、契約の効力に影響は生じない。

 

そして、問2以下で、押印があるとどういう効果があるか、について民事訴訟法第228条4項をとりあげ解説しています。

民事訴訟法(文書の成立)
第228条
4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。

 

詳細は冒頭に指摘したURLから原文をお読みいただきたいのですが、これまでは、民事訴訟法第228条第4項の文言が、「私文書は、本人又は代理人の署名や押印があるときは、真正に成立したものと推定する。」となっていますから、契約後にトラブルになって、実は契約は成立していない、などと言われないために(裁判になってもしっかりと立証するために)、契約書などの書面が正しく成立したことを推定する手段として、事実上、押印を必須としてきました。

しかし政府は、前述のとおり、「契約は当事者の意思の合致により、成立する」、「特段の定めがある場合を除き、契約に当たり、押印をしなくても、契約の効力に影響は生じない。」と明言しました。

もしも、その契約書が正しく成立したかどうかが裁判で争いになった場合について、以下の回答をしています。

「他の方法によっても文書の真正な成立を立証することは可能であり(問6参照)、本人による押印がなければ立証できないものではない。」(問3 回答2項)

「本人による押印があったとしても万全というわけではない。そのため、テレワーク推進の観点からは、必ずしも本人による押印を得ることにこだわらず、不要な押印を省略したり、『重要な文書だからハンコが必要』と考える場合であっても押印以外の手段で代替したりすることが有意義である」(問3 回答4項)

つまり、政府は、証拠があればハンコ押印がなくても契約が正しく成立したことを立証できる、契約の際にハンコを必要とすべきではない、と述べています。

では、どのようなものが押印に代わってその文書成立の真正を証明する手段となり得るのでしょうか。本Q&Aの問6に詳しく記載されています。

① 継続的な取引関係がある場合には、「取引先とのメールのメールアドレス・本文及び日時等、送受信記録の保存」が証拠になります。
また、括弧書きで、(請求書、納品書、検収書、領収書、確認書等は、このような方法の保存のみでも、文書の成立の真正が認められる重要な一事情になり得る…。)とあります。

② 新規に取引関係に入る場合には以下が証拠になります。
・契約締結前段階での本人確認情報(氏名・住所等及びその根拠資料としての運転免許証など)の記録・保存
・本人確認情報の入手過程(郵送受付やメールでのPDF送付)の記録・保存
・文書や契約の成立過程(メールやSNS上のやり取り)の保存

③ 電子署名や電子認証サービスの活用
(利用時のログインID・日時や認証結果などを記録・保存できるサービスを含む)

 

本Q&Aは、「上記①と②については、文書の成立の真正が争われた場合であっても、下記の方法により、その立証が更に容易になり得る…。」とあります。

その下記の方法、とは以下のとおりです。

(a) メールにより契約を締結することを事前に合意した場合の当該合意の保存(b) PDFにパスワードを設定
(c) (b)のPDFをメールで送付する際、パスワードを携帯電話等の別経路で伝達
(d) 複数者宛のメール送信(担当者に加え、法務担当部長や取締役等の決裁権者を宛先に含める等)
(e) PDFを含む送信メールおよびその送受信記録の長期保存

 

2.「書面・押印・対面主義」からの脱却

日本独自文化による非効率不合理性が顕著になったことをうけて、
内閣府 規制改革推進会議 四経済団体は、2020年7月8日、
「『書面、押印、対面』を原則とした制度・慣行・意識の抜本的見直しに向けた共同宣言」を公表しました。

https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/061.pdf
https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/061.html (一般社団法人 日本経済団体連合会HP)

同宣言は、「2.民民間の取引における見直しについて (2)押印についての考え方の整理」において、以下のとおり記しています。

押印に関する民事基本法上の規定の意味や押印を廃止した場合の懸念点に応える整理(内閣府 法務省 経済産業省作成の「押印についてのQ&A」)に基づき、押印が必須でない旨を周知し、民間事業者による押印廃止の取組を推進する。

 

また2020年7月17日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2020」
の第3章「新たな日常の実現」の1(4)①においても、以下のとおり、「書面・押印・対面主義からの脱却等」について記しています。

書面・押印・対面主義からの脱却等

書面・押印・対面を前提とした我が国の制度・慣行を見直し、実際に足を運ばなくても手続できるリモート社会の実現に向けて取り組む。このため、全ての行政手続を対象に見直しを行い、原則として書面・押印・対面を不要とし、デジタルで完結できるよう見直す。また、押印についての法的な考え方の整理などを通じて、民民間の商慣行等についても、官民一体と なって改革を推進する。行政手続について、所管省庁が大胆にオンライン利用率を引き上げる目標を設定し、利用率向上に取り組み、目標に基づき進捗管理を行う。

 

3.まとめ

政府が「脱・ハンコ文化」に向けての具体的方針を公表したことにより、日本のデジタル化が大きく前進することは間違いありません。そして、今後もその流れは止まることはありません。

私たちが、今、行うべきことは、動き出したデジタル化の波に乗り遅れることのないよう、常に情報・情勢を見極め、それぞれの企業・組織に合ったビジネス様式を新たに構築していくことだと考えます。
我々は、大きな流れの変化をはっきりと理解し、従前の「書面・押印・対面主義」を見直し、業務生産性の向上に取り組むべきだと思います。

今回は日本文化ともいうべきハンコの押印について、流れが大きく変わりましたので、政府公表資料のご紹介とともに、皆様と確認する趣旨で本稿をご案内いたしました。

今後は急速に電子署名や電子認証サービスが浸透すると思われますので、日を改め、内容をご紹介したいと考えております。